ポケモンアドベントカレンダー3
はじめに
スワです。
3週に渡っての連載アドベントカレンダー
ついにラストです。
皆さんこれが読めたということは
わたしは記事を落とさずに書けたということですね。
えらーい!
さて第三回目では
中沢新一著「ポケットの中の野生」
を、扱う予定ですが
今回もネタバレかなり含みます。
そして、精神世界からみたポケモンという
特にポケモンについて知らないひとからみると
「だいじょうぶかな?」
と思われる、危険を孕む記事になりそうです。
ざっくりとまとめると
なぜわたしたちはポケモンにハマるのか
ということについて、
ふんわりふむふむする内容になりそうです。
本題
中沢新一の「ポケットの中の野生」
によると、事の発端はゲームの元祖ともよべる
インベーダーゲームから着想を得ています。
かなりの懐ゲーですね。
インベーダーゲームでのエイリアンを
言葉の構造のそとにある無意識のふちからうまれる
対象aとして説明しています。
図でかくと
こうですね。
ふむふむ
何も無い空間から、ふっと現れる敵は
存在しない場所(言葉でかたちづくられた意識のそと)
から得体の知れないものとしてあらわれます。
わたしはインベーダーゲームやった記憶ないんですけどねー!
きっと、もっと大きなキッズ達は経験があるかもしれませんが
横にスクロールするインベーダーを撃つと
現実味のない軽さで彼らは消えて
わたしたちは、それらを象徴として捉え
意識と無意識のふちでのやりとりを繰り返す事になります。
先ほどの図は、イラストなので平面的ですが
立体的に、ぎゅっと折り畳んだ状態を想像していただくと
ひだ、くぼみ、穴によってそこに奥深さがうまれます。
そこから現れた洞窟を探検するまえに
物語のはじまりについておはなししますね。
母体とひとつであった子どもは
調和のとれた世界から
ことばが構成するせかいに臨みます。
ことばのせかいで、かつて失われた調和と全体性を
ことばになりきれずにいる「対象a」にもとめるのですね。
物語がはじまるときも、その世界は欠けています。
平和だったものが崩れていたり
なにかが不足していたり
何千年も前から語り継がれている神話や民話と同様に
物語は欠如から進んでいきます。
ふむふむ
なんだかインベーダーが可愛くみえt
勘の良い方ならお気づきかもしれません。
この対象aですが、そっくりそのままポケモンに当てはまります。
探検のはじまりです。
くさむらから、ふっとあらわれたポケモン
それを捕獲するためのモンスターボール
モンスターボールに入れられた対象aことポケモンは
その容器にいれることで、適度な距離感を保ちながら
知性の対象として捉えることができます。
前回の記事でも扱ったとおり
このポケモンのせかいは
ニシノモリ教授をはじめとする様々な博士たちによって
科学的なことばで体系づけられています。
現実の自然とおなじように
ポケモンたちは生態系をもち、分類されています。
ポケモンが知的な豊かさをもとめるものである
というのは
ポケモンのせかいそのものが
わたしたちの心のなかに、その道筋を照らしているということです。
現実世界での非言語的なものごとを
かたちとして捉え、観察し、知的なものとして昇華する
そのプロセスをしめし、教えてくれています。
かつてキッズだった頃
まだ、ことばもたくさんは知らなかった頃を思い出すと
知らないあぜ道やほそい道なんかを
わくわくして探検した記憶があります。
おとなになった今でも
ひとから聞く新しい発見は
わたしをわくわくさせます。
安全な場所からの、
未知への探求心という原始的な欲求は
子どももおとなも変わらないのかもしれません。
基本的にポケモンは
ゲームをとおして象徴されたもののなかで
安全を確保したうえでのやりとりになります。
その距離感が、心地よく
こころのポケモンたちと付き合うコツなのかなあとおもいます。
最後に
最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。
ポケモンとは何なのか?
という疑問は、ポケモンがすきなひとなら
一度は考えたことのある問だとおもいます。
中沢新一ワールドから放たれたポケモン論を
スワフィルターを通し、お伝えしましたが
もし少しでも関心をもたれたのであれば
ぜひ、彼の本を読んでいただけたらなあとおもいます。
そしてその感想を教えてください。
ポケモンをとおして、ひとやせかいを知る。
ポケモンを楽しみながら
このせかいを、それによってより楽しめたらいいなあとおもいます。
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